第十回

  

昭和十一年の春、御供所尋常小学校を卒業すると、福岡男子高等小学校に入学しました。小学校の担任の先生が何度も家まで来て
「西島君は成績も操行六年間全甲で、ずっと級長もしてきた。ぜひ中学へやってほしい」
と、父を説得してくださったのですが、ストライキで職場を解雇され、サラリーマンの弱さを体験した父は、どうしてもウンと言わなかったそうです。進学よりも手に職をつけさせることが子供たちの将来のためと意地にも思っていたに違いありません。

それと、私たちが小学生のころは、一クラスが五十人前後で、そのうち中学校へ進学できる裕福な児童は十人くらいでしたし、小学校だけで家事の手伝いをする子もいましたので、二年生の高等小学校へ進むのが普通のようでもありました。

福岡市立の高等小学校は天神にあり、市内の小学校から集まった男女それぞれ二千人くらいの生徒が、隣り合わせの学校で勉強するのです。

そのころの天神は「てんじんのちょう」と言って、現在の交差点より浜側の松屋デパート(現マツヤレディス)のほうがにぎやかでした。いま福岡中央郵便局や日本銀行、電通がある五十メートル道路(昭和通り)です。
学校は西日本新聞社の近くで、市内電車と久留米までの急行電車の踏切が平行していました。岩田屋デパートが開店して。大きなくす玉が割れ、紙吹雪が舞ったのを覚えています。

前後、校舎は解体されてスポーツセンター(現在のソラリアビル)と警固公園になってしまい、学校自体も学制改革によって消滅し、いまでは名実共に「幻の高等小学校」になってしまいましたが、「山笠」や「どんたく」などを復興してきた人たちの大半が、この学校の卒業生ではなかったろうかと思ったりしています。
しかし、やはり進学できなかった悔しさで、母校の話は皆さんあまりしないため、次第に忘れ去られているようです。

この学校の校訓は「自覚向上、剛健努力、協同親和」で、ものすごいスパルタ教育でした。冬でも足袋を履くことは禁じられ、朝礼などでは凍てつく校庭にはだしで整列させられたりしました。
高等二年生になったとき日中戦争が始まり、陸軍の将校が学校にやって来て軍事教練も学科の中に加わってきたようです。

夏には遠泳大会がありました。百道の海岸(現在は埋め立てられて住宅街に変ぼうしている)から姪浜まで約一里(四キロ)を泳ぐのです。白い六尺兵児(ろくしゃくへこ・さらしのふんどし)を締め、赤い旗が立てられた海のコースをゆっくり並んで泳いでゆきます。
伴走の船の上からは先生が太鼓をたたきながら、「ヨーイコラ」ドーンドンと励ましてくれます。私は横泳ぎで、時々塩水が口に入ったりしましたが、はるか向こうに能古島が波間に浮かんだり沈んだりするのを見ながら頑張って、一年生の時に完泳できました。

無事全部泳げると「第五歩(四キロ完泳)の試験通過」ということで、一年生は黒帽に白線五本、二年生は白帽に黒線五本が入り、それが自慢でもありました。泳げない子は赤帽だったようです。

海から上がると、ショウガ入りの「あめ湯」が用意されていて、くたくたに疲れた体にしみわたるようなうまされした。満二十歳になって徴兵検査を受けたとき、「私は泳げます!」と言って海軍になってしまいましたが、その動機はこの遠泳で鍛えられた自信でした。

またこの学校は、卒業するとすぐ就職するので、将来の進学志望によって「工業組」「商業組」に分けられており、普通の学科以外に実習授業がありました。工業組はノコやカンナを持参して大工仕事の授業があり、商業組は簿記、珠算の検定試験、英語のほか校内売店の経理など一切を生徒が管理するという徹底ぶりです。

私は「商業組」で、二年生になると夏と冬の休み商業実習で博多駅前の商店に勤め、リンゴを磨いたり市内電車の切符を売ったりの体験をしました。まだ、十四歳の子供で、実社会体験を通じ「相手の身になって考えること」「自分の失敗を他人に着せないこと」「言い訳をしないこと」などを学び取ることができたものです。

運動教育も盛んで、私のような者でもバスケット、バレーボール、剣道、柔道までやらされました。二千人の生徒全員が何らかの運動部に必ず所属しなければならなかったので、学校全体がレベルアップしていて、他校との対抗試合には、いつも優勝して、校長室には優勝旗がいっぱい並んでいました。

(1993年 画家 著書より)

 

    

  

   
  


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