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昭和十三年春、高等小学校の卒業式が終わった翌日、父に連れられて福岡市内浜口町の「トヨタ図案社」に入門することになりました。
はじめて見る大人の仕事場をおそるおそるのぞきこみますと、先生のほかに二人のお弟子さんが静かに机に向かって、一生懸命小さな文字を書いておられます。説明によると、芝居や浪花節のビラをはじめ、広告のチラシ、あるいは日本酒、しょうゆ、かつお節、缶詰等々・・・のレッテルを細かい文字まで印刷したように描く仕事で、その精巧な技術に驚き、
「よし!これは面白そうだ!ガンバッテみよう!」と心に決めました。
冬でも朝は六時起床、掃除も現在のような掃除機はありません。ハタキをかけ、ホウキで掃き、冷たい水でぞうきんがけ。製図道具は毎日磨き、昨夜使用された絵の具の皿洗いと、筆ふき布の洗濯。当時は貴重だった自転車にちょっとでもサビがつかないように、毎日機械油をつけて全体を磨くのです。
そのころでは燃料節約がすでに叫ばれてました、風呂をわかした石炭の燃えかすを洗ってガラにし、再使用できるようにしたりしていました。
ちょっとの余裕もないまま急いで朝食。ただちに仕事に入ります。昼は向かいが「嶋井オフセット印刷」という会社(博多商人三傑の一人で貿易を営んだ嶋井宗室の子孫)で、工員さんたちが道路に出てキャッチボールなどをするため、私たちもおかげで昼休みができましたが、逆に夜はその会社の印刷機が夜中まで回っているため、ほとんど夜業になっていました。
休日は月に二回です。それも午前中は雑用がたまっていて、外出できるのは午後からです。門限が午後八時までなので、休日もすぐ終わります。お小遣いは、五十銭玉一つ、映画を見て「うどん」を食べるとなくなります。家に立ち寄り母からこっそり小銭をもらって帰っていましたが、あの寂しさは忘れられません。
「休日なんてなければよい」と、独り布団をかぶって泣いたもんです。何度徒弟修行をやめて家に戻ろうかと思ったか分かりませんが、入門するときに
「途中で帰ってくることはならんぞ!他人の飯を食べきらんやつは一人前の職人にはなれん!」と言った父の姿が目に浮かんで辛抱しました。
驚いたことにもの「トヨタ図案社」は小学校の同級生の家だったのです。最初私は「嶋井オフせっt印刷」の画工として勤めることに決まっていたらしいのですが
「大勢の中より、一対一で教えていただいほうが良い」という父の考え方から、急に
「そんなら向かいの豊田先生を紹介しよう」ということになったため全くの奇遇です。
毎朝私が掃除している頃同級生の豊田君は学校へ行くのですが、その中学の制服制帽がうらやましくてなりませんでした。ときどき午後前に奥様に呼ばれて、同級生が通う中学校にお弁当を持って行かされるようになりました。

真っ白いハンカチに包まれた弁当のおかずの汁がこぼれないように大事に抱え、自転車で中学校まで行き、教室の外で授業が終わるのを待つのです。
校庭の空を仰ぎながら、「どうしてこんな差がつくのだろう」と思ったりしていましたが、そのうち、これは「一日中仕事場ばかりでは大変だろう。気分転換に解放してあげよう」という奥様の温情であったことに気がつきました。
しかしこういう体験が「おれは将来立派な画家になるのだ!」と一生懸命腕を磨く原動力になったようです。
絵の具は現在のように便利なポスターカラーやマジックインキなどありません。固形の顔料を少量お皿に入れ、ニカワを加えて指で溶くのです。冬は絵の具皿が寒天のようにトロトロになります。指は棒のように硬くなってしまいます。量が多すぎても少なすぎてもいけません。
細い筆で、和紙にひじをつかずにペンのような線の円や曲線が描けねばなりません。筆と棒を二本持ち、竹の物差しの溝を利用して和紙に直線を引く「ミゾサシ」という練習も重ねます。烏口(からすぐち)でグラフ用紙の線を正確に引けるようになるには一年くらいかかりました。
文字は明朝やゴシック、楷(かい)書、隷(れい)書、芝居の勘亭流などなど。一ミリ四角の小さな字も原寸大で書いていました。「いろは」を「以呂派」と書く変体仮名や、七福神に龍や唐獅子牡丹、桜・梅・菊・アヤメなど古い伝統的な図柄は、参考書を見ずにかけるようにならねばなりません。
図案の技術を習得しながら、仕事の注文を受けに行ったり、原画を届けたり、請求書配りや集金で印刷屋さんに出入りしては石版(リトグラフ)やオフセットの印刷技術を覚えることにも努めました。
(1993年 画家 著書より)
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