第十三回

  

徴兵検査まで無事図案の修行をすることができて、入門当時、父が先生と交わした契約通り祝い金百円を頂きましたが、もうそのころは物価が高騰して百円の値打ちはすっかり落ちていました。
紋付き、羽織、袴(はかま)一式の贈与の約束も、戦時下とあって国防色(カーキ色)の国民服になってしまいました。

それでも昭和十七年、二十歳の秋、私は晴れて一人前の図案職人になったのです。久しぶりのわが家で背をのばしていましたら、姉が
「どっからか電話バイ」と呼びます。
「もしもし、私はあながたトヨタ図案社にいるとき、よく仕事を頼みに行った平楽寺という者だが、私の会社に勤めてくれないか‥‥」
とのことです。
突然、しかも社長から直接大事な話なので
「返事はちょっと待ってください」
と電話を切って一日中考えました。

私が五年間の修行中にすぐ上の兄は病気で亡くなり、母もその一年後に他界し、父の苦しみは私の倍でもあったろうと思われますし、
「私は今日まで親に迷惑ばかりかけてきましたので、甚だ失礼ですが普通よりちょっと高い給料にしていただけませんか」
と厚かましくハッキリ返事しましたら、即座に
「よし!事情は分かった!大学卒以上の給料を出そう!」
と夢のような返事です。

 

さあ!さっそく翌日から出社です。会社は新聞広告の代理店で万町(よろずまち。現西鉄グランドホテル前)にあり、新調の国民服を着て出かけました。
徒弟時代に朝早く目が覚める癖がついていたので、出社時刻の九時には毎朝二時間も余裕があります。家を出て瓦町から川端、中州大橋、天神町と、かなりの距離を歩いても時間が余ります。

スケッチブックを持って、絵を描きながらゆっくり会社に向かいますが、それでも早過ぎるので、会社に着くとストーブに火を入れたり、お茶を沸かしたりしていましたら、女子社員から
「いらんことしてもらったら、私たちが怒られます」
と抗議されたりしたものです。

そのころの私の仕事は国策キャンペーンのアイデアを考え、協賛商社を集めてもらうようなことや、東宝映画九州支社から出される封切り映画広告のレイアウトでした。

(1993年 画家 著書より)


はじめての会社勤務(前列右)20歳

 

    

   
  


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