ここでは生前、画家 西島伊三雄本人が人生の様々な出来事を 
語った著書より、いろいろなエピソードを紹介していきます。

  

第十八回

  

輸送船はひたすら南へ走ります。

船中では海軍の一般的な常識の教育です。内地では英語が敵性語と言われていましたのに、海軍はイギリスの様式を取り入れてきたからでしょうか、妙な英語の呼称が多いのです。

雑巾(ぞうきん)は「外舷マッチ」、布巾が「内舷マッチ」、「オスタップ」は洗濯用の金属製タライ、「ラッタル」は階段のことです。「つまようじ」のことを「カンタイニューコー」というのは、艦隊が入港したら、いちばんに妻に用事があるという「これは、日本語だ」と上官に聞かされて大笑いしました。

夜は灯火が漏れないように、窓はすべて黒い幕が下ろされ、赤道が近付くにつれて物すごい蒸し暑さです。甲板に出て涼んだり、冷たい水を飲んだりはできません。水は貴重品です。

朝は洗面器一杯の水で、まず歯を磨き、次にうがいして外に吐き出し、残った水で洗面、さらにこの水でハンカチ、靴下の洗濯をする節約方法を習いました。

だれかが乗船前に皮膚病にかかっていたのか、船内に疥癬(かいせん)が、まん延し、半数くらいが体のあちこちをボリボリかく始末です。早くどこかに上陸させてもらわないと、かゆくてたまりません。

やっとの思いでシンガポールに入港しましたが、第一南遣艦隊司令部では私たちの行く先は「たぶん、ジャワ島のスラバヤであろう」ということで、そのままスラバヤへ回航です。そこの海軍病院で治療を受けているとき「お前たちは、セレベス島のマカッサルだろう」ということになりました。

時はすでに昭和十九年に入っていましたから、今にして思えば戦況は日増しに不利となり、命令系統もかなり混乱していたのではないでしょうか。

マカッサルでは、五十名くらいのオランダ兵捕虜を連れて道路工事に行かされました。銃を構えて警備していても、私はまだろくに銃の撃ち方を知りません。捕虜は入れ墨をした半裸の、激戦を経験したらしい精かんな大男たちです。
山の中で彼らに作業させるときは生きた心地ではありませんでした。

マカッサルで半月が過ぎたころ、ようやく私たちの本来の行く先はビルマ(現ミャンマー)最南端のメルギー島であることが確認されました。船は再びジャワ、シンガポールと引き返し、やっと任地へ向かいました。

当時、敵の潜水艦がウヨウヨしていたマラッカ海峡を、よくも回遊できたことだと胸をなでおろしました。


当時の危険海域をよくもマァ回遊

(1993年 画家 著書より)

    

  

   
  


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