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終戦直後のあのころは、おふろ屋さんで上着をとられたり、弟の自転車店ではタイヤが盗まれたり、旅館では宿泊料を払わずに逃げる客も度々で、生きてゆくことが精いっぱいの時代でした。 ところが、柳橋のたもとに「三帆醤油」という親代々のしょうゆ屋さんがあり、そこの御曹司で宮崎宣久という人が「この殺伐とした時代にこそ」と、当時では購読者もありそうにない「文化展望」「映画展望」という本を出版されたのです。 また、杉村春子主演「女の一生」や、岩下俊作の「無法松の一生」、田村泰次郎の「肉体の門」などの演劇を東京から招いて福岡公演を催し、そのおかげで私は演劇のポスターをかかせていただきました。 さらに、大きなしょうゆ蔵を改造してキャバレーにすることになり、その窓のない白いスペースに、壁画ということで木下邦子先生(故人、元現会会員)に下絵をお願いし、そのまま拡大して私が描くことになりましたが、一人では無理です。仲間の鎌田輝穂君(元二科会)と一緒に高いやぐらを組んで挑戦したものです。 そんなある日、私が校区の運動会に出たその夜、家内が急に胃が痛いと言い出したのです。 さっそく病院へ連れて行きますと、即入院、ただちに手術とのこと。青ざめながら待合室で無事を祈るうち、手術も順調に終わってホッと一息。ところがそのあと、吐き気がドッときて瞬時に窒息死してしまったのです。 運命のはかなさとはいえ、あまりにも残酷です。神様を恨みました。私の昨日までの幸せは、あえなく崩壊してしまいました。二歳の女の子と、生まれて四カ月の男の子を残された私は、気も狂わんばかりの境遇に落とされてしまいました。 しかし葬式を終え、日がたつにつれて、周りの家庭をよく見回してみますと、幸せそうに見える家庭でも、人間は何らかの「苦」を背負いながらも生きているのだということに気付きました。 そのころは、粉ミルクも配給です。砂糖はヤミでしか手に入りません。おしめは、厚く硬い木綿の軍服をゴシゴシ洗って柔らかくしました。夜、蒸し暑い蚊帳の中で赤ん坊が「ワアッ」と泣きだすと、伊藤のおばあちゃん(家内の母)と妹がウチワであおぎながら、あやして寝かせてくれました。
本人が描いた演劇ポスター(30歳)(1993年 画家 著書より) |