
|
昭和二十六年、二科会に商業美術部が新設され、東郷青児先生が博多にお見えになって「君たちの作品が上野の美術館に飾られるチャンス到来だ」とのこと。もうふだんの仕事はほったらかいて(ほうり出して)応募することにしました。 この年の二科展の商業美術部のスポンサーは、NHK、専売公社、競輪、運輸省、宝くじで、私は「宝くじ」の課題で出品しましたら、これがなんといきなり「特待賞」という偉い賞です。 図のように、国定忠治が使ったような革のキセル入れを、本物の印伝(いんでん=シカのなめし革細工)のように入念に塗ったり削ったりして写実的に描いた作品です。横に付けた文章も「こうしたことになろうとは…」なんて、自分で考えたものではありますが、よくもまあズウズウしく書いたもんだと赤面しています。私が二十九歳のときです。 早速上京、花のお江戸の上野美術館に飾られた自分の作品の前に立ったときの感動は忘れられません。 「君が九州の西島伊三雄君だね。おめでとう」と、美術館の事務室のような所で、画家の野間仁根氏から独特の荒い筆致で書かれた賞状と一緒に、まだ一万円札がないころで、しわになった百円札をガサッとわしづかみで三百枚渡されたときは度肝を抜かれ、さすがに純粋画家という人は大きいなあと感じました。 上野の山を下りながら「この幸運は亡き家内が見守ってくれたおかげだ」と思い、そのまま銀座へ出て、もう四歳に育った長女と一歳半の長男の子供服をお土産に買って帰ることにしました。同行のデザイナーからは「見せびらかすな」と言われたりもしましたが、私にとってはそれが精いっぱいの背伸びでした。 それからの私は、もう「二科展のぼせ」です。翌年、展覧会が近まると、一カ月前から「二科展制作のため休業」と張り紙です。畳一枚ぐらいの大きな作品を、欲張って十二点も出品したのですが、これは見事に全部落選してしまいました。弟子の西田一徳君は「特待賞」です。やっぱり人間は我欲を捨て、無心で絵を描かないと失敗する……といったことをつくづく味わいました。
二科特待賞になった作品(昭和28年作)(1993年 画家 著書より) |