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後に東郷先生のご息女、東郷たまみさんがジャズ歌手として九州公演に回られたとき「巡業先のことが心配だから佐賀まで迎えに行ってくれ」と私に電話があり、無事福岡の深見俊二ジャズバンドに引き継ぎましたが、あの頃は、まだ中洲河畔の道はアスファルトでなく、やっと側溝ができたころです。 私は二科の伊藤研之先生ほか四人で、その河畔に「那珂川」という「ぜんざい屋」を始めることになったのです。調理は、昔「川端ぜんざい」と並ぶ博多名物だった「十五ぜんざい」のおやじさんで、室内装飾も茶室風に凝り、おはし袋は、伊藤先生の絵を入れるというぜいたくぶりでした。 西中洲の水上公園から花火が打ち上げられたころです。私は氷で冷やしたラムネの箱を表通りに出して、栓を抜いたりしましたがまだ人通りも少なく、おまけに小豆や砂糖はどんどん値上がりして毎月赤字続きです。 中洲のバーに飲みに行って、そこのホステスさんにぜんざいを食べに来てもらうという、全くの殿様商売で、開店のときは東郷青児先生もわざわざお見えになって激励してくださいましたのに、二年ぐらいで倒産、閉店になってしまいました。 やっぱり人間は、本職をまじめにやることですねえ。 そのころ福岡競輪が開催されるようになり、まだ一度も見たことがない競輪のポスターを描きましたら、背番号の1は白、2が黒、3が赤など、分からないまま勝手な色を付けたために大失敗です。 「一度競輪場に見に来てください」と言われ、今の西鉄貝塚駅付近にあった競輪場に出掛けて、投票券の買い方なども教えてもらい、どれが本命なのか分かりませんが、ニシジマだから2−4と連勝式の券を買いましたら、これがまぐれにも的中!働かずしてお金が入りビックリしたものです。 このころの落ち着きのない私の暮らしを見かねて、伊藤のおばあちゃんが、二人の赤ん坊のためにも、わが子のように毎日お守りをしてくれている妹を嫁にすることが一番幸せということで、妹には「すまん」と思いましたが、結婚にこぎつけました。これでやっと落ち着いて、仕事に専念するようになったのです。
当時のぜんざい屋で(左から本人、伊藤先生、間茂樹氏)(1993年 画家 著書より) |