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昭和三十一年、私は二科商業美術部審査員になりました。二科に出品して五年目です。 ところがそのころから、自分の作品に対して疑問を感じ始めたのです。といいますのは、同時に創立された「日本宣伝美術会」(略称日宣美)の作品を見ますと、筆と絵の具で描くというだけでなく、写真や印刷の網目版の活用や、文字の書体、文章まで作者の神経が行き届いています。 しかも、共同で一枚の作品を作り上げたり、自分は描かなくてもアイデアを提供して監督になったりするという、今まで見たこともないような作品が並んでいるのです。 これらの作品を見たとき、私は「二科展は、人間の手で描く絵で個性を大切にする会。私に必要なのは、目的に従っていろいろな技法を試みなければ、時代の先端をゆく広告作品はできないと思ったのです。 しかし二科展のおかげで、有名な画家のほかに写真家の秋山庄太郎先生や林忠彦先生たちとも親しくお付き合いできるようになれましたし、退会すれば、後に「九州派」を結成された菊畑茂久馬、寺田健一郎、桜井孝身、黒木耀治、オチ・オサム、石橋泰幸、山内重太郎、米倉徳氏らのような元気のよい人たちともお別れです。 とりわけ地元福岡の伊藤研之先生に何と理由付けして、おわびしたらいいか分かりません。加えて商業美術部に出品していた久留米の檜枝幹夫氏ほか七人もが一緒に退会したため、私が扇動したように思われたようですが、伊藤先生の寛大なご理解で平穏に二科を退会することになりました。 それまで名刺の肩書には「二科商業美術部審査員」と書いていましたのが、空白になって寂しくも感じましたが、まだまだ若いし、これからが出発です。それから「日宣美」という日本の商業デザイン専門の会に挑戦することになりました。
(1993年 画家 著書より) |