第六十八回

  

 中国から文化を輸入した遣唐使船は博多の港を出て、初めは朝鮮半島沿いの南路をとり、十八回渡航して無事帰国できたのは八回ぐらいしかなかったこと。

 聖福寺は、栄西というお坊さんが建てた日本でもいちばん古い禅宗のお寺で、最初に茶の木が渡来したといわれる脊振山と同時にお茶を植えた所であること。

 博多人形は黒田長政に従う御用瓦(かわら)師の正木宗七が城の屋根瓦用の粘土で余技に人形をひねったのが起源のひとつであるということ。

 博多織は、豊臣秀吉のころ博多の唐織師・竹若伊右衛門が厚手の帯地の織立に成功したのが始まりで、幕府に献上するようになってから「博多献上」の名が生まれたそうです。

 また太閤の博多町割は、仏教でいう七七・四十九の願をヒントに、東の石堂川、西の博多川、南は矢倉門、辻の堂一帯を限度として七小路、七番、七堂、七口、七流、七厨子、七観音の名を新しい町に付けたそうです。

 また、博多が焼ける前の街並みが、戦時中の映画「陸軍」(木下恵介監督)に写されているので、それを見ることにしましたが、私たちだけではもったいないので一般にも公開することにしました。

 これは福岡空襲で焼失した須崎町一帯でロケされており、私にも記憶がある街並みです。とりわけ、那珂川の弁天橋(現在の「電通」横付近)から笠智衆が川で泳いでいる息子にスイカを投げてやるシーンと、田中絹代が我が子の出征を見送りたくてたまらなくなり、旧電車通りまで掛け出して行くときの街並み、橋口町角の十七銀行(福岡銀行の前身)あたりの道や古い電柱の広告などには感動しました。

 また、西中洲にある、明治四十三年春開幕の第十三回九州沖縄八県総合共進会の迎賓館だった旧教育庁庁舎を残そうと提言したり、中洲に「福岡藩精錬所」があったことや、明治四十年に与謝野鉄幹、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里の一行が泊まって「五足の靴」を執筆したのが「川丈旅館」であったこと、中島公園には天保の頃七世団十郎が興行した話。

 昭和五十三年、福岡市が水飢ききんになったとき、昔太閤秀吉の茶会に使われた名水「松原水」の井戸が東公園に残っているので、町人文化連盟の負担で手押しポンプを設置することもしました。

 こういう私たちの行動をサントリー文化財団から認められて昭和六十二年度地域文化賞を受賞、百万円をいただいたりしました。

(1993年 画家 著書より)


  

 

   
  


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