|
今から二十年前、日本デザイナー学院という、東京に本部があって札幌・仙台・横浜・名古屋・大阪・広島と全国に姉妹校を持つ学校の理事長が「九州校を設立するので、その校長に就任してください」との話です。 私はこれまでに、佐賀大学、九州産業大学、九州芸術工科大学と教壇に立ちはしましたが、今の日本はあまりにも急速に豊かで便利になったため、若者との考え方が根本的に違ってきていることを痛感していましたので、おいそれと返事ができないのです。 だいいち「校長」という呼び名が私には不似合い。真剣に断り続けましたが、東京では大先輩の資生堂山名文夫先生が学院長で、同じ系統の写真芸術専門学校校長は写真家の秋山庄太郎先生が就任を了承されたとのこと、全国の先生の顔触れのどなたを見ても尊敬する方ばかりです。 迷いに迷いましたが、私もこれまで勝手気ままに生きてきたようですし、そろそろ公的な場でお役に立てるものならお引き受けするべきではなかろうかと思い直しました。 若者との考え方の差がありすぎるという理由で逃避するのではなく、逆に学校という場で、大正生まれの私が体験した戦前戦後の日本人の暮らし、体得した技術などありのままの姿を生徒に伝えるのも社会への還元でしょうし、もし生徒から反対意見が出れば、それに対応してゆくのも自分自身の勉強だと思い、最初のお勧めの話があってから五年目ぐらいにやっとお引き受けしました。 昭和四十三年に設立された九州校は、現在、学校法人九州呉学園として博多駅前四丁目に日本ビジネススクール(土屋呂武校長)とともに立派なビルが建ち、男女合わせて五百人の生徒が、勉強に励み、毎年二百五十人ぐらいが実社会へはばたいています。 当時、理事長の呉永石氏は「これからの教育は社会に出て即戦力になる実践教育の専門学校が必要だ」と力説されて全国を飛び回り、とうとうその過労が出て大病に冒され、私が九州校の校長に就任したころはすでに耳が全く聞こえなくなっておられました。 現在では体の血液を毎週二回、全部入れ換える人工透析をされていますが、アメリカに分校を創設したり、つねに全国の学校を訪ねたりされる奇跡的に元気な方でもあります。 その事業への情熱と、いろいろな人への細かい心遣いには、いつも感服しています。 ![]() 日本デザイナー学院で生徒と話し合う私 (1993年 画家 著書より) |